自己肯定感が持てなくても
今週のお題「やる気が出ない」に参加しています。
やる気が出ない・気持ちが沈む原因は、色々あると思います。
原因が体調不良や自分を取り囲む状況(コロナ禍とか天候不順とか、人間関係のごたごたとか…)の時には、私はなんとかやり過ごすことができていました。
でも、自分が何か失敗したり、そうじゃなくても「自分はダメだなあ」と感じたりした時は、うまく気持ちを切り替えることができませんでした。メンタルヘルス本なんかだと、「ダメな自分の状態を受け入れて、自己肯定感を持ちましょう」と書いてあることがあり、「自己肯定感を持とう」と意識はするものの、できず…。かなり長いこと気持ちが沈んだままでいることが多かったです。
ここ数年は、かなりマシです。
フェルナンド・ペソアの「[新編]不穏の書、断章」(訳:澤田直 平凡社ライブラリー)のおかげです。私は普段あまり本を読むほうではないのですが…、困った時には頼りにしています。
ペソア(1888−1935)は、ポルトガルの詩人、作家です。かなり特異なのは、実名以外に人格や作風が異なる「異名」でも作品を書いていたことです。その数、70にのぼるとか…。この本も、前半はペソア名による「断章」という箴言集。後半は、「ベルナルド・ソアレス」名による「不穏の書」という散文集になっています。死後に遺稿を整理して再構成したということで、どちらも「断片集」のような印象を受けます。
そう書くと、なんだかめんどくさそうな感じですが…。
前半の「断章」は、俳句や短歌並みに短い箴言集です。
例えば、箴言107は
人生は意図せずに始められてしまった実験旅行である。
また、33は
私の魂は隠れたオーケストラだ。私の中で演奏され鳴り響いているのがどんな楽器なのかは知らない。弦楽器、ハープ、ティンパニー、太鼓。私は自分のことを交響曲としてのみ知っている。
本当にそうだなあ、と読んでいて思うことが多いのです。
そして、76
完璧であるためには 存在するだけでよい。
…無敵です。無敵すぎて、「33」「107」のような箴言を書いた人の言葉でなければ、「そう言われても…」で終わりそうです。
[76]を読んで以来、気持ちが沈んだ時には、この言葉を思い出すことにしました。短い文なので、思い出すのも簡単です。「自己肯定感を持つ」ことと「存在するだけでよい」ということは、もしかしたら同じ状態を指しているのかもしれませんが、私はかなり違う感じを受けました。「持とう」と意識するのと、「条件なし・これでいいのだ」と。条件なしは楽です。早く気持ちを切り替えることができるようになりました。
なぜ、存在するだけで完璧なの?
ただ…。なぜ存在するだけで完璧なのかは、わからないままでした。
私には信仰心もないし、やっぱり都合が良すぎるかな、と思うこともありました。
そんなある日、たまたま見たNHKのテレビ番組「100分de名著 スピノザ エチカ」(解説:國分功一郎)が、その意味を自分なりに理解するのに役立ってくれました。哲学をあまり知らない私には、衝撃的にわかりやすい番組でした。
(テレビ放映は2018年ですが、NHKオンデマンドで有料配信しています)
第一回目の放送で、スピノザの「神についての概念」について説明されていました。スピノザの哲学の出発点にあるのは「神は無限である」という考え方だということでした。そして神が無限だとしたら、「ここまでは神だけれど、ここから先は神ではない」という限界がないということになり、言い換えれば「神には外部がない」ということになる、ということでした。そして神には外部がないのだから、「全ては神の中にある」ということになります。すると、私たちも含めみな神の中に存在していることになるので、「私たちもみな神の一部である」「すべては神のあらわれである」ということになる、という説明でした。
「神」というと、宗教心がない私なんかは距離を感じてしまうのですが、スピノザの言う「神」の概念は「自然」や「宇宙」の意味に近く、自然科学的ということでした。
これをペソアの箴言76に当てはめると、自分なりにその言葉の意味が納得できました。全てのものが神(宇宙)のあらわれなのだから、存在するだけで完璧なのです。
影響を受けて、その後スピノザの「エチカ」本を読み始めたのですが、今のところ挫折中です。私には、難しすぎます…。
自分にも読めるようなスピノザ本が出ないものかと思っていたら、100分de名著の時の解説の方の「はじめてのスピノザ」(作:國分功一郎 講談社現代新書)が去年出版されました。100分de名著「スピノザ エチカ」に新章を加えた増補改訂版ということです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。